池波正太郎とパリ 1


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197年代、作家池波正太郎はフランス映画について写真入りの本を書くため、パリの地へと降り立った。初めて訪れる土地であるにもかかわず、以前から慣れ親しんだ場所であるかのように、パリの街へ自然と溶け込んだ。「フランス映画を四十何年も観つづけてきた所為か、到着の夜、モンパルナスの「クーポール」へ食事へ行ったときも、これまでに何度も見た風景に再会したようなおもいがして、すこしも違和感がなかった。」あるシネマディクトの旅 P10 

「あるシネマディクトの旅」を読み進めると、旅行客ではなくパリジャンが訪れるレストランやカフェに通い、映画を楽しみ、パリを東京の日常のように過ごしている。パリの滞在の中で、池波氏はどういった場所を訪れ、どう感じたのだろうか、氏の著作であるフランスの旅行記「あるシネマディクトの旅」を共に、その足跡を辿ってみようと思う。

居酒屋「B.O.F」と江戸の面影

池波正太郎が旅をした当時、旧中央市場のレ・アールは、市場で働く労働者を対象にしたカフェやレストランが残っていた。1971年にこのパリジャンの胃袋であった市場は郊外へ移転し、解体作業が進み、ショッピングモールの建設作業の最中であった。「あるシネマディクトの旅」の読むと、この市場の名残である労働者を相手にしたレストランやカフェが安くてうまいと評している。その中でも主人セトル・ジャンが経営してた居酒屋「B.O.F」は池波氏の大のお気に入りの店として紹介され、1回目のパリ滞在中に4回ほど、足を運んでいる。

この居酒屋「B.O.F」は、その当時200年も前からある老舗居酒屋で、セトル・ジャンが引き継いで50年にもなるそうだ。「B.O.F」とは「Bonne (佳き)Oubliée (忘れたる)France(フランス)」という意味で、池波氏の記述によると、いかにも下町情緒溢れる、活気のある古き良きフランスの雰囲気の残る居酒屋だ。「メグレ警部」のシリーズの作家ジョルジュ・シムノンや写真家のロベール・ドアノーもこの店に惹かれ、常連の客として足を運んでいたという。

居酒屋「B.O.F」では、主人がわざわざ直接に仕入れるモーゴンという褐色のぶどう酒とペルノーの水割り、パンとチーズを出すというシンプルなメニュー内容であった。主人によって厳選された美味しいもののみを提供するシンプルなスタイルも池波氏のお気に入りでもあった。主人セトル・ジャンの人柄に惹かれ、池波氏はこの店に相当入れ込んでいた。「フィリップの短編小説に出てくる居酒屋」「江戸の町の居酒屋にでもいるようなおもいがした」と書き残している。

この池波正太郎のコメントで、居酒屋「B.O.F」に江戸の面影を見ている点が何より興味深い。時代小説家ならではの視点で、パリの居酒屋に江戸の匂いを感じるのは私たちにとっては、なんとも不思議な感覚である。残念ながら現在居酒屋「B.O.F」はアメリカ人の経営者が引き継いだ後、いつのまにかファーストフード店へと店は変わり、実際どういった酒場であったかは、知る由はない。この旅に同行した佐藤隆介はこの酒場「B.O.F」を時代離れした侘しい居酒屋だったと評しながらも、池波氏のこの居酒屋にあれほど入れ込んだ理由をこう分析している。

池波正太郎がそこに見たものは、古き佳き時代のフランス映画に出てくる酒場というよりも、自分が書いている江戸時代の居酒屋の姿だった。そういう居酒屋や食いもの屋が戦前の日本には、どこの町にもあった。池波正太郎にとっては、自分が住み暮らす東京から消滅してしまった昔ながらの人間らしい暮らし方が、思いもかけずパリにまだあった、ということだったに違いない。」江戸の味が食べたくなって p.259

労働者に単純にシンプルでうまいものだけを提供するというスタイル、その主人の心意気が江戸の粋に通じるものを感じたのではないだろうか。居酒屋「B.O.F」を訪れたことはないが、池波氏の随筆を読みすすめながらそう感じ取った。浅草で育った池波氏は戦前江戸時代の名残があった職人通う単純にうまい蕎麦屋や寿司屋の面影を、パリの居酒屋「B.O.F」に見たのであろう。パリのような大都市は東京ほどではないが、変化も早い。現在居酒屋「B.O.F」はもう存在しない。池波氏がパリで感じ取った江戸を感じ取ることが出来ないのは残念である。

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2016年6月のレ・アール

池波正太郎が嘆いていたレ・アールは、現在また大工事が行なわれ、パリの中でも異様な近代的な建築物が急ピッチで建てられている。かつて労働者で活気が溢れていたこの地域の姿はもうどこにも見ることができない。

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